歴史を忘れる民族に未来はない!

帝国日本の人権抑圧、侵掠戦争、植民地支配を記憶し、再現を許さないために歴史否認ネット右翼のデマを潰す。姉妹ブログ「Ob-La-Di Облако 文庫」 https://obladioblako.hatenablog.com/

【今日のおつかれデマくま】 2021.3.16


f:id:ObladiOblako:20210316215941j:image
14日以降、南京城内で食糧が見つかっている(中島日記他)。
下関埠頭を占領し、15日には機雷掃海もほぼ終わって、揚子江航路が啓開した。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1371775085082644486

山田支隊に上海派遣軍、所属師団を通じて食料の補給が届くのは旅団長山田栴二の日記によれば12月19日のことで、それまでの13日~18日はの食料は現地徴発に負っていた。

◇12月19日 晴

捕虜始末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ。

軍、師団より補給つき日本米を食す。

《下痢す》

「おつかいくまさん」は山田支隊が捕虜を生かすための食料に不自由していなかったかのように言う。


f:id:ObladiOblako:20210316224255j:image

翻って上元門東部の捕虜は、部隊の食糧不足は明らかだったが、自軍が飢えていたのでも、補給が途絶していたわけではなく、周辺部隊からの補給が期待できたこと、戦域全体でもこの頃は食糧事情が改善点向かいつつあったことから、食糧不足を理由にはできないし、

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1371742365556215814

しかし山田栴二日記の12月日の項には次の様に記されている。

 捕虜の始末其他にて本間騎兵少尉を南京[第16師団]に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食料なく困却す。

こればどういうことかというと、「14,777名を得たり。斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり」(12月14日)と、大量の捕虜への対処に悩んだ山田旅団長は、まず上海派遣軍司令部に相談したのである。上海派遣軍参謀長の飯沼守の日記にはこう記されている。

 山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千人あり、尚増加の見込みと。依て取り敢へす16Dに接収せしむ。

上海派遣軍は山田支隊の捕虜について、最終的な処理については保留のまま、暫定的に第16師団に引き取ってもらえと指示した。そこで今度は本間騎兵少尉を南京市内の第16師団司令部に派遣して相談させたのである。第16師団自身、当初は捕虜を受け付けない方針だったが(歩兵第30旅団命令12月14日「各隊は師団の指示ある迄俘虜を受付くるを許さず」)大量に投稿して来る中国兵を受け入れざるをえなくなり、これを殺害するので手一杯だった。したがって引き取る余裕はないから山田支隊自身の手で殺害しろというのが「皆殺せ」の意味だ。そしてその直後に記されているのが「各隊食料なく困却す」の語だ。捕虜を養う食竜がないから殺すのだ。「楽隊食料なく困却」しているのに、どうして「周辺部隊からの補給が期待でき」るのか?

 上海派遣軍作戦課長の西原一策も12月14日の作戦日誌に次の様に率直に記している。

 13D[第13師団]山田支隊の獲たる俘虜約二万あるも、食糧なく、処置に困る。