歴史を忘れる民族に未来はない!

帝国日本の人権抑圧、侵掠戦争、植民地支配を記憶し、再現を許さないために歴史否認ネット右翼のデマを潰す。姉妹ブログ「Ob-La-Di Облако 文庫」 https://obladioblako.hatenablog.com/

メモ 有賀 日清戦役国際法論の仏国学士院講評 云々


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南京での「便衣狩り」は市民を集めてその中から適当に怪しいのを摘出して処刑したというものですから、いわゆる便衣兵を即決処刑したというのとは違いますよね。

これは陽高事件でもシンガポール虐殺でもマニラ虐殺でも同じですけど。

https://twitter.com/tim123456789021/status/1367825699583582209


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同じですよ。
①容疑者から便衣兵を抽出したる後に、②該便衣兵を即決処断した。
便衣兵を処断し得るのは先例上問題ありません。
便衣兵を戦場で即決処断し得るのは報復権によるものです。(万国国際法学会戦規提要、オッペンハイム国際法Ⅱ)
よって②は違法とは認められない。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1367912861649965057


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②が違法ではないならば、①の便衣兵抽出も違法ではない、必要な戦闘行為となりますが、その際の非戦闘員の便衣兵誤認の有責性が論点となるわけです。何遍も言ってますけれども。
非戦闘員保護義務は緊急性や審査能力を鑑み可能な範囲で良い。
現実に短期間でどのような審査が可能かと誤認率の問題です

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1367916243395645450


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陽高事件は正確な資料がない。秦の記述も例によって推測だらけで比較対象になりません。
シンガポールは完全占領後の事件であるから戦時重罪人として審判を要する。南京の参考にならない。
マニラは非合法戦闘員(ゲリラ)との戦闘ですね。誤認も多いけれども。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1367920425527734272


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南京の便衣兵とそっくりなのは1894年の旅順事件ですね。別枝に書いたけれども。
1874年のブリュッセル会議で大陸諸国は便衣兵(土民兵)の保護で合意したが(10条)、便衣兵と化した清国兵殺害は、当初は国際的非難を浴びたがやがて納得を得た。(有賀 日清戦役国際法論の仏国学士院講評)

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1367927438550786049

 


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旅順事件は、戦闘中に便衣となった戦闘員を処断し得るという先例になりました。1898年のハーグ条約以後も同様の事例での先例はなく、南京の便衣兵処断にもこの先例が当てはまると考えられます。経緯および国際法上の争点については有賀長雄「日清戦争国際法論」および樋口晴彦の論文参照。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1368602767229521920

 


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違うだろ。ことの経過は逆で、手当たり次第の虐殺が外信の報道で列強諸国に知れ渡って から、詭弁的言い訳として持ちだしたに過ぎない。捕虜を取らないんだから投降しようがないわな。

https://twitter.com/badjoe20151/status/1368807137946726400


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旅順事件が知れ渡ったのは1984年12月12日米紙ワールドの「クリールマン記事」ですが、観戦した米オブライエン武官、仏ラブリ武官ともに同記事は虚偽、誇張が含まれると本国に報告していますね。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1368808923684204545


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既述しましたが大山大将の弁明に対する有賀長雄の肯定的な評価はフランス学士院にも送られ、学士院も公平な評価だと講評しています。国際世論も旅順事件日本側主張をおおむね承認した。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1368810137574543362


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訂正1894年です。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1368812918129627137

 

【今日もおつかれデマくま】「慰安婦」は円建てで手取りを受け取っていたのか?


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実は慰安婦の給料は円建てで、金額制限付ですが円で内地に送金できました。現地での買い物には影響したし、日本もインフレでしたけど、ハイパーインフレの影響をすべて被ったわけではないです。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1372742872353501186

 

 「おつかいくまさん」のデマが止まらない。座礁したタンカーから流れ出す原油の様だ。このツイッター·ユーザーはさも何か事実を知っているかのよいな顔をしてハッタリをかます。今度の「実は慰安婦の給料は円建てで」というのもその一つだ。「実は」などと訳知り顔で言いながら、彼は慰安婦の手取りが日本円で支払われていたことを証明できる資料を提示することはできないはずだ。

 ビルマのミッチーナーから避難中に捕虜となった「慰安婦」とその抱え主夫妻に対する米軍心理戦班の尋問報告書第49号や、その後の抱え主夫妻に対する詳細尋問に基づく東南アジア翻訳·尋問センター 尋問速報 第2号では慰安所の料金システムや娘の売上額と手取り額などが円の単位で叙述されている。

PPICE SYSTEM:
 The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular area. According to interrogations the average system was as follows.

1. Soldiers 10 AM to 5 PM 1.50 yen 20 to 30 minutes

2. NCOs 5 PM to 9 PM 3.00 yen 30 to 40 minutes

3. Officers 9 PM to 12 PM 5.00 yen 30 to 40 minutes

 These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.

料 金 体 系

 業務を取り行う条件は陸軍が規則で統制し、混雑する地域では規制が厳しく強化された。陸軍が混雑する地域において必要と見なしたのは、当該地域で作戦行動する諸々の慰安部隊に統一した料金・優先順位・時間割の体系を課すことだった。尋問によれば平均的な体系は以下のとおりである。

1.兵卒/午前10時~午後5時/1円50銭/20分~30分

2.下士官/午後5時~午後9時/3円/30分~40分

3.将校/午後9時~午後12時/5円/30分~40分

 これらは中部ビルマにおける平均的な料金である。将校は20円で翌朝まで滞在することが許された。ミッチーナーでは丸山大佐が料金を平均のほぼ半額まで切り下げた。

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/09/16/011202

 

PAY AND LIVING CONDITIONS:

 The “house master” received fifty to sixty per cent of the girls’ gross earnings depending on how much of a dept each girl had incurred when she signed her contract. This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the “master”. Many “masters” made life very difficult for the girls by charging them high price for food and other articles.

支払い条件と生活状態

「楼主」は娘たちが稼いだ総額の50%から60%を受け取った。その比率は各々の娘が契約書に署名したときにどれだけの債務を背負ったかによる。これはつまり、平均的な月に一人の娘が総額1,500円を売り上げたとすると、750円を「楼主」に引き渡したということだ。多くの「楼主」たちは食品やその他の物品に高額の料金を課すことによって娘たちの生活をひどく苦しくした。

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/09/16/011202

 

 In prisoner of war’s house the maximum gross takings of a girl were around 1500 yen per month, minimum around 300 yen per month, or by rule of the house, the girl had to pay to the brothel owner a minimum of 150 yen per month.

 捕虜の娼館では一人の娘の売上総額は最高で月に1500円、最低で月に300円だった。そうでなくとも娼館の決まりにより、娘は売淫所の所有者に月に最低150円を支払わなければならなかった。

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/09/16/010805

 しかし、娘たちが手取りを円立てで、つまり日本円の紙幣や硬貨で受け取っていたとは、これらの報告書のどこにも記されていない。

 娘たちがどのような形の金銭を手にしていたかは、他の文書に書かかれている。米軍心理戦班の尋問はインド、アッサム州のレドにあった捕虜収容所で1944年8月20日から9月10日まで行われ、その後デリー市レッドフォートでの詳細尋問に基づいて東南アジア翻訳·尋問センターの報告書が同年11月30日に出されるのだが、これらよりも先、8月8日にミッチーナーの捕虜収容所で予備尋問を行った人たちがいる。米軍情報将校の在米華僑ウォンロイ·チャン大尉と、日系アメリカ人の通訳官ハワード·フルモト軍曹、グラント·ヒラバヤシ軍曹、ロバート·ホンダ軍曹である。

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Capt. Chan, Sgts. Howard Furumoto, Grant Hirabayashi, and Robert Honda, with Comfort Girls. Myitkyina, Burma, August 1944.

 

そのウォンロイ·チャン Won-loy Chan の回想記 “BURMA  The Untold Story” 『ビルマ戦秘話』のなかに、予備尋問中、慰安所の女将が帯の下に仕舞った娘たちの稼いだ金を彼らに見せる場面が出てくる。果たしてそれは日本円の札束だったろうか。

The girls seemed to relax a bit, gave us a few tentative smiles, and directed more questions to Mama-san. 娘たちの緊張はちょっと緩んだらしく、微笑んで見せてくれるのも二三人いて、ママサンにさらにいくつも質問を向けた。She turned back to us. ママサンは私たちの方へ向き直ると、She said that she was responsible for the girls. 娘たちに責任を負っているのだと言った。She hesitated as if at a loss for words and squirmed a bit. 言葉が見つからないように言いよどみ、ちょっともじもじした。Both Grant and I noticed that her obi, the traditional sash worn by all Japanese women, seemed a bit too full of her very small figure. グラントも私もママサンのオビ、日本の女が誰でも身に着ける飾り帯が、とても小さな体の割に膨らみ過ぎていることに気が付いた。It looked as if she were pregnant, which in view of her age didn't seem possible. ほとんどまるで妊娠しているみたいだったが、それは年齢からして有り得ないことと思われた。I whispered a few words to Grant. 私が数語を囁きかけると、He scuffed his feet a few times and then, as if he were talking to his mother or his aunt asked her if by any chance she might be hiding something. グラントは数歩、後ずさり、母親か叔母にでも話しかけるように、もしかして何かを隠してはいないかと、ママサンに尋ねた。She smiled at Grant's obvious discomfort. ママサンはグラントの明らかな当惑を見て微笑んだ。
  Nodding her head, she slowly began to unwind the voluminous obi and explaned that being responsible for the girls also meant responsible for their earnings. こっくり頷きながらママサンはゆっくりと部厚いオビをほどき始め、娘たちに責任を負うとは娘たちの稼ぎに責任を負うということでもあるのだと説明した。As members of the Women's Volunteer Corps they had been paid and had also received tips. 女子挺身隊員として娘たちは支払いを受けてきたし、チップも受け取ってきた。When the Japanese fled Myitkyina, Mama-san had collected all the girls' money and kept it safe on her person. 日本軍がミイトキイナから逃げたとき、ママさんは娘たちみんなのお金を集めて肌身離さず保管してきたのだった。Grant was relieved and told the old lady "No problem." グラントは安心して年配の婦人に「大丈夫です」と言った。If money was all she had in the obi, both she and the girls would be able to keep what they had earned. オビを膨らませているものがすべてお金ならば、ママサンも娘たちも稼いだものを確保できるだろう。She removed the obi and took from it neatly wrapped bundles of paper currency that she placed on the ground in front of us. ママさんはオビを解くとその中からきちんと包んだ紙の通貨の束を取り出し、私たちの目の前の地面に並べた。The girls, whose knowledge of japanese was not up to the task of undedstanding the exchange between Mama-san and Grant, watched anxciously. 日本語の知識がグラントとママサンの間の遣り取りを理解できる程度には及ばない娘たちは、不安そうに見守っていた。
  Grant and I each picked up a bundle of the money. グラントと私はそれぞれお金を一束、手に取った。The bills were each for ten rupees and still warm─either from Mama-san's body heat or from hot off the press─they are Japanese occupation scrip. 札は一枚一枚が十ルピー相当で、ママサンの体温のせいか圧力で発熱したためか、まだ暖かかった。それは日本軍の占領地手票だった。Something like our own scrip used in Europe and Asia, it was a paper promise by the Japanese government to pay by some unspecified date the amount of ten Burmese rupees. 我が軍がヨーロッパやアジアで使っていた手票と似た様なもので、いつとも明記されていないある日に同額のビルマ十ルピー札で支払うという日本政府による紙約束だった。With the loss of northern Burma and what appeared to be the total defeat of the Imperial forces, the scrip was undoutedly worthless. 北ビルマを失い、帝国陸海軍が全面的に撃ち破られたと見える状況では、その手票は疑いなく使い途がなかった。Grant and I slowly placed the bandles back on the ground in front of Mmasan. グラントと私は札束をママサンの前の地面に戻した。Grant looked at me and I nodded my agreement of what I knew he was thinking. グラントが私を見たので、彼が何を考えているか分かっていた私は頷いてそれに同意した。He looked at the girls, shrugged, and then as gently as he could explained to the old lady that what she had was money printed by the Japanese and now that the Japanese had been defeated, the money was worthless, had no value. グラントは娘たちを見て、肩をすくめ、それからできるだけ穏やかに年上の婦人に説明した。あなたが持っているのは日本軍が刷ったお金で、日本軍が負けたからにはそのお金は使い途がなく、無価値だということを。
  Mama-san looked at us in total disbelievf. ママサンは全く信じられないという目で私たちを見て、Her mouth opened but no sound came out. 口を開いたが言葉がでなかった。She pointed to the money on the ground, looksd at us questioningly, and shook her head back and forth. 地面のお金を指差して問いかけるように私たちを見て、頭を前後に振った。Slowly she stooped over and piccked up the bundles of paper money. 紙のお金の束の上に屈み込んで拾った。Very carefully she replaced them in the obi and very slowly rewound it around her waist. とてもゆっくりと札束をオビに仕舞うと、とてもゆっくりとそのオビを腰に巻きつけた。For some reason it didn't look as full as it had a few minutes before. どういう分けかオビは二三分前ほど膨らんで見えなかった。Atter talking with me, Grant turned back to the Mama-san and asked her for one or two of the bandles. 私と話をした後、グラントはママサンに札束を一つか二つくれないかと聞き、He explained we could exchange for the scrip for cigerets, candy, and food with American and Chinese souvenir hunters. 土産好きなアメリカ兵や中国兵のところに手票を持って行って煙草やキャンディや食品と交換できるだろうと説明した。Mama-san thought this proposition over for a few minutes. ママサンは二三分間この申し出について考え込んでいたが、Then she slowly unwound the obi again, carefully removed two bundles of the scrip and gave them to Grant. やがて再びゆっくりとオビをほどき、大切そうに二束の手票を取り出してグラントとに渡した。There was a collective sigh of relief from the girls. 娘たちから集団的な安堵の吐息が漏れた。I'm certain they thought this exchange was the American version of the Oriental custom of "squeeze" and that the rest of their hard-earned !money was now safe. きっとこう考えたに違いない。この交換は「袖の下」という東洋の習わしのアメリカ版であって、苦労して稼いだお金は大丈夫になったと。Mama-san explained the whole caper to her girls. ママサンが緊急事態の一部始終を説明すると、Some laughed, some cried, and when I thought of what these girls had endured to earn this worthless scrip I was heartsick. 笑いだす娘もいれば泣きだす娘もいたが、この使い途のない手票を稼ぐためにこの娘たちが堪えてきたことを思うと私は胸が潰れそうだった。

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/09/16/005721

 この通り、ビルマ、ミッチーナーの朝鮮人慰安婦」が性的奉仕の報酬として受け取った金銭は朝鮮に持ち帰って通用する日本円ではなく、ビルマを帝国日本軍が占領している限りそのビルマで強制通用させられる軍事票券であり、それ以外の場所と条件では無価値な紙切れだった。

 

 

 

 

【今日もおつかれデマくま】日本政府は極東国際軍事裁判の判決に述べられた事実認定を受諾していないのか? 2021.3.17

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東京裁判判決についても、日本政府は必ずしもそこでの事実認定すべてを正しいと認めているわけでもないけれども、判決は受諾するという立場だね。況や個人の研究をや。

で、南京事件研究については東京裁判等の事実認定を基礎にする者はゼロだよ。あたしゃ東京裁判ガーが現れる度に失笑しているよ。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1371920807358726144

 何度でも繰り返すが、事実認定を含め、極東国際軍事裁判等の諸判決の一切、またはそれら裁判の一切を認めたというのが、日本政府によるサンフランシスコ講和条約第11条の解釈だ。

        Article 11

 Japan accepts the Judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan. 〈……〉 

        第十一条
 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。[以下略]

 

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S38-P2-795_1.pdf

 2005年6月2日の衆議院外交防衛委員会における自民党山々えり子委員の質問と、それに対する政府参考人、林景一外務省国際法局長の答弁は以下の通りである。

山谷えり子君 ……日本は東京裁判の判決を受け入れましたが、英文の「ジャパン アクセプツ ザ ジャッジメンツ」の、法律用語ではこれは判決の意味で、フランス語、スペイン語においても、この単語の意味、言語学的には裁判ではなく判決と読めるそうでございます。

 日本は裁判の判決を受け入れていますが、日本側共同謀議説などの判決理由東京裁判史観を正当なものとして受け入れたのか、また、罪刑法定主義を無視し、今日でも概念が国際的に決まらない平和に対する罪で裁かれたことを受け入れたのか、国民の間に混乱があると思いますが、分かりやすく御説明ください。

https://kokkai.ndl.go.jp/txt/116213950X01320050602/27

○政府参考人(林景一君) お答えいたします。

 先生も今御指摘のとおり、サンフランシスコ平和条約第十一条によりまして、我が国は極東国際軍事裁判所その他各国で行われました軍事裁判につきまして、そのジャッジメントを受諾しておるわけでございます。

 このジャッジメントの訳語につきまして、裁判というのが適当ではないんではないかというような御指摘かとも思いますけれども、これは裁判という訳語が正文に準ずるものとして締約国の間で承認されておりますので、これはそういうものとして受け止めるしかないかと思います。

 ただ、重要なことはそのジャッジメントというものの中身でございまして、これは実際、裁判の結論におきまして、ウェッブ裁判長の方からこのジャッジメントを読み上げる、このジャッジ、正にそのジャッジメントを受け入れたということでございますけれども、そのジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれているというふうに考えております。

 したがって、私どもといたしましては、我が国は、この受諾ということによりまして、その個々の事実認識等につきまして積極的にこれを肯定、あるいは積極的に評価するという立場に立つかどうかということは別にいたしまして、少なくともこの裁判について不法、不当なものとして異議を述べる立場にはないというのが従来から一貫して申し上げていることでございます。

https://kokkai.ndl.go.jp/txt/116213950X01320050602/28

 林国際法局長はこの答弁で、サンフランシスコ平和条約第11条で日本政府が受諾した「ジャッジメントというものの中身」には「裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定(バーディクト)、あるいはその刑の宣告(センテンス)、そのすべてが含まれている」と言っている。

 

 詳しくはこちらを→https://obladioblako.hateblo.jp/entry/2021/02/24/105435

【今日のおつかれデマくま】 2021.3.16


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14日以降、南京城内で食糧が見つかっている(中島日記他)。
下関埠頭を占領し、15日には機雷掃海もほぼ終わって、揚子江航路が啓開した。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1371775085082644486

山田支隊に上海派遣軍、所属師団を通じて食料の補給が届くのは旅団長山田栴二の日記によれば12月19日のことで、それまでの13日~18日はの食料は現地徴発に負っていた。

◇12月19日 晴

捕虜始末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ。

軍、師団より補給つき日本米を食す。

《下痢す》

「おつかいくまさん」は山田支隊が捕虜を生かすための食料に不自由していなかったかのように言う。


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翻って上元門東部の捕虜は、部隊の食糧不足は明らかだったが、自軍が飢えていたのでも、補給が途絶していたわけではなく、周辺部隊からの補給が期待できたこと、戦域全体でもこの頃は食糧事情が改善点向かいつつあったことから、食糧不足を理由にはできないし、

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1371742365556215814

しかし山田栴二日記の12月日の項には次の様に記されている。

 捕虜の始末其他にて本間騎兵少尉を南京[第16師団]に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食料なく困却す。

こればどういうことかというと、「14,777名を得たり。斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり」(12月14日)と、大量の捕虜への対処に悩んだ山田旅団長は、まず上海派遣軍司令部に相談したのである。上海派遣軍参謀長の飯沼守の日記にはこう記されている。

 山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千人あり、尚増加の見込みと。依て取り敢へす16Dに接収せしむ。

上海派遣軍は山田支隊の捕虜について、最終的な処理については保留のまま、暫定的に第16師団に引き取ってもらえと指示した。そこで今度は本間騎兵少尉を南京市内の第16師団司令部に派遣して相談させたのである。第16師団自身、当初は捕虜を受け付けない方針だったが(歩兵第30旅団命令12月14日「各隊は師団の指示ある迄俘虜を受付くるを許さず」)大量に投稿して来る中国兵を受け入れざるをえなくなり、これを殺害するので手一杯だった。したがって引き取る余裕はないから山田支隊自身の手で殺害しろというのが「皆殺せ」の意味だ。そしてその直後に記されているのが「各隊食料なく困却す」の語だ。捕虜を養う食竜がないから殺すのだ。「楽隊食料なく困却」しているのに、どうして「周辺部隊からの補給が期待でき」るのか?

 上海派遣軍作戦課長の西原一策も12月14日の作戦日誌に次の様に率直に記している。

 13D[第13師団]山田支隊の獲たる俘虜約二万あるも、食糧なく、処置に困る。

【今日のおつかれデマくま】 八路軍とはなにか? ゲリラとはなにか? 彼らは「不法交戦者」たる「便衣兵」なのか? 2021.3.16

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メコンの旅人 @mekonnotabibito

七年前に亡くなられた召集されて中支で兵役に着いた人の体験談では、初年兵は上官から中国人捕虜に銃剣で突くように命令されたり、この世に未練を残さずに戦死できるように慰安所の利用を強制されたらしい。歴史修正主義者が言うように凶暴な日本軍が南京でだけ品行方正だったとは思えない。 https://t.co/XWWjDgQFhc

https://twitter.com/mekonnotabibito/status/1370915711053262849

 

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八路軍(共産匪)、匪賊、その他の便衣の兵ならば不法交戦者(ゲリラ、テロリスト)として扱われ、当時は戦闘で捕らえても捕虜とせずに処断しても違法とは言えなかったですし、
銃剣が装備されていることからも、刺突は当たり前の攻撃方法であり、だから残虐だとは言えないわけです。#南京事件

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1371668027062677507

 この歴史否認ネット右翼「おつかいくまさん」の無知は止まる所を知らない。

 前線部隊の一存で中国人捕虜を銃剣で突いて殺害するのは「俘虜は敵国政府の権内に属し、之を捕獲したる個人又は軍団の権内に属することなし。俘虜は博愛の心を以て之を取扱ふべきものとす…」というハーグ陸戦則第4条に反する戦争犯罪である。

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https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000018884

 どうして八路軍が「不法交戦者」なのだろうか。急ほ迫不正の侵略者に対して人民が武装組織に加わって抵抗するの不法でもなんでもない。正規兵であろうがなかろうが、また軍服をきていようがいまうが、それは人民の「自衛権」の行使であり、また不法な支配者(占領者)の圧制に対する「抵抗権」=「革命権」の発動である。

 どうやら無知な「おつかいくまさん」はゲリラとは軍服を着ない「便衣兵」であると信じていて、中国北部の共産党軍=八路軍が「ゲリラ」闘争をしたと聞くと、八路軍が制服を着ないで戦ったと、つまり農民の服装をして農民に紛れて帝国日本軍を狙撃しと思い込み、だから「不法交戦者」であって捕虜として保護される権利がないと言いたいらしいが、これは事実に反する。

 「ゲリラ」とは予め攻撃する敵を定めず、戦線外において小規模な部隊を運用して、臨機応変に奇襲、待ち伏せ、後方支援の破壊といった、攪乱や攻撃を行う戦法、またはその戦法が用いられた戦闘を指す。小回りの聞く神出鬼没な戦い方を「ゲリラ」というのであって、そういう戦い方をしているなら、制服を着ていてもいなくてもその武装組織および武装闘争は「ゲリラ」なのだ。

 Wikipedia の「ゲリラ」に出ている画像によれば

1808年からのスペイン独立戦争で、フランス軍による侵略に抵抗するスペインのゲリラや、
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第二次ボーア戦争(1899~1902)におけるゲリラは私服を着ていたが、

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https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%B7%AF%E8%BB%8D

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https://www.google.com/search?sxsrf=ALeKk03Zh0hA_Wcvr023KJfetvg4PBrRAw:1615877507017&source=univ&tbm=isch&q=%E5%85%AB%E8%B7%AF%E8%BB%8D%E3%80%80%E5%88%B6%E6%9C%8D&client=android-kddi-jp-revc&fir=JdUIbvesucNi1M%252CjB9QTMQ6WxNCeM%252C_%253BBf9oiv2UREDVoM%252CjB9QTMQ6WxNCeM%252C_%253BuRb0EsLaOhy0wM%252CjB9QTMQ6WxNCeM%252C_%253BUKelbRWUd1WWCM%252CjB9QTMQ6WxNCeM%252C_%253BFGINqW0F-0qOhM%252C83e3OCFS_22bcM%252C_%253B3TDItUPy0VaGIM%252CwHIGFm5TtPIdxM%252C_%257Carmy%253B%25E9%259D%25A9%25E5%2591%25BD%25E8%25BB%258D%253B%25E3%2582%25A2%25E3%2582%25AF%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25A7%25E3%2583%25B3%25E3%2583%2595%25E3%2582%25A3%25E3%2582%25AE%25E3%2583%25A5%25E3%2582%25A2%253B%25E8%25A1%259B%25E7%2594%259F%25E5%2585%25B5%253B%25E8%25BB%258D%25E6%259C%258D%253B%25E5%259C%258B%25E6%25B0%2591%25E9%259D%25A9%25E5%2591%25BD%253Baliexpress%253B%25E5%2588%25B6%25E6%259C%258D%25E8%25A1%25A3%25E8%25A3%2585%253B%25E4%25B8%25AD%25E5%259B%25BD%25E5%2585%25B1%25E7%2594%25A3%25E5%2585%259A%253B%25E4%25BA%25BA%25E6%25B0%2591%25E8%25A7%25A3%25E6%2594%25BE%25E8%25BB%258D&usg=AI4_-kRJZY02ky_xhabHnpU1dcpqHRaURw&sa=X&ved=2ahUKEwiaq7nmnLTvAhVY_GEKHX2sDwMQ7Al6BAgFEC0&biw=412&bih=682&dpr=2.63#imgrc=MO46rphMQpLRnM&imgdii=4whoxtCxsVfrKM

八路軍のゲリラは制服を着ていた。「八路軍」の正式名称は「中華民国国民革命軍第八路軍」という。帝国日本の中国全面侵略戦争の始まりを承けた1937年8月の第二次国共合作により、中華民国の正規軍である「国民革命軍」に合流し、その「第八路軍」となって以降の中国北部の共産党軍のことを通称して「八路軍」と呼ぶ。

 したがって「八路軍」は制服を着た正規兵であり、ハーグ陸戦規則第一条に照らしても正当な交戦者である。彼らには捕虜になった際に人道的な取り扱いを受ける権利を含む一切の戦闘の法規および権利·義務が適用される。彼らをを捕虜にした後、殺害するのは戦争犯罪である。
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https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000018884

 

 

 

南京の武装解除された元兵士たちは戦時国際法に違反していないし、国際法違反なら投降拒否していいことにもならない。


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おつかいくまさん @Otsukaikumasan

ハーグ陸戦慣例規則には、投降受け入れ義務の条項がありますが、実は当時は規則以外にもいくつもの例外的な慣例がありました。
戦闘中は必ずしも投降を受け入れなくても良い
相手が背信行為(便衣兵等)を犯した場合や
食糧の欠乏など自軍の給養も困難なときも受け入れなくても良い
等です。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1369487808637759492

 このツイッター·ユーザーはラサ·オッペンハイムの戦時国際法論(国際法論 第2巻 戦争と中立、1912年)を読んでいるふりをして下の様なツイートをしていたが、上のツイートではオッペンハイムを読んでいないのがバレバレだ。

おつかいくまさん @Otsukaikumasan

>その場で殺害したのではなくまず捕まえている。
「敵の戦争法規違反に対する報復として…投降を拒否することができる。」(オッペンハイム国際法Ⅱ 1913年版)
つまり敵が投降しても殺害し得るのだから、殺害のために一旦捕獲したとしても、捕虜にしたとは言えないのである。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1364594452556210178

「おつかいくまさん」の主張はいくつかの点でオッペンハイムの主張と真っ向から対立する。

おつかいくまさん「実は当時は規則以外にもいくつもの例外的な慣例がありました。」

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1369487808637759492

オッペンハイム “the former rule is now obsolete according to which quarter could be refused to the garrison of a fortress carried by assault, to the defenders of an unfortified place against an attack of artillery, and to the weak garrison who obstinately and uselessly persevered in defending a fortified place against overwhelming enemy forces.”「以前の決まりによれば、襲撃を受けて陥落した要塞の守備隊や、無防備な陣地を砲撃から守備する部隊、圧倒的な敵の軍勢に対して防御陣地の執拗かつ無益な防衛にこだわる弱小な守備隊には助命を拒否してもよかったが、こうした決まりは今や過去のものとなった。」

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2021/02/28/145217

おつかいくまさん「食糧の欠乏など自軍の給養も困難なときも受け入れなくても良い」

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1369487808637759492

オッペンハイム “But it must be emphasised that the mere fact that numerous prisoners cannot safely be guarded and fed by the captors does not furnish an exceptional case to the rule, provided that no vital danger to the captors is therein involve.”「強調しなければならないが、捕虜を取る側にとって致命的な危険がそこに含まれない限り、沢山の捕虜を捕まえても安全に警備し給養することができないという事情だけでは、この決まりの例外の事例とはならない。」

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2021/02/28/145217

オッペンハイムがここで「この決まり」と言っているのは、ハーグ規則の第23条の(ハ)項、(ニ)項の禁止事項である。

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第23条 特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の如し。

(ハ) 兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵兵を殺傷すること

(ニ) 助命せざるの宣言を為すこと

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000018884

これを解説してオッペンハイムは次のように論ずる。

combatants may only be killed or wounded if they are able and willing to fight or to resist capture. Therefore, such combatants as are disabled by sickness or wounds may not be killed. Further, such combatants as lay down arms and surrender or do not resist being made prisoners may neither be killed nor wounded, but must be given quarter. 

戦闘員を殺傷してよいのは、彼らが戦うかまたは捕まらない様に抵抗する能力と意志を有している場合に限る。したがって病気や負傷によりその能力を失った戦闘員を殺害してはならない。さらにまた武器を地面に置いて降伏するか、囚われの身になることに抵抗しない戦闘員は、殺害も傷害もしてはならず、命を助けなければならない。

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2021/02/28/145217

 歴史否認ネット右翼が「便意兵」とレッテルを張る元中国兵たちは、安全区内に入るときに国際委員会によって武装解除されており、積極的に投降の意思表示はしなかったものの、少なくとも「囚われの身になることに抵抗しな」かった。このような人たちを殺害することは、オッペンハイムによればハーグ規則違反であり、交戦法規慣例に反する。幕府山その他で大量に投降して帝国日本軍が一度受入れざるをえなかった中国兵たちも勿論、殺害してはいけない。どちらも捕虜として人道的に扱わなければならない。

 給養できないというだけの理由ではこの規則の例外として殺傷してよいことにはならないとオッペンハイムは言っているのに、「おつかいくまさん」は「食糧の欠乏など自軍の給養も困難なときも(投降を)受け入れなくても良い」などという私製「国際法」を振り回す。なぜだろうか。「おつかいくまさん」は「食糧の欠乏など自軍の給養も困難な」状況で捕虜を殺害した帝国日本軍を合法化したいのだろう。

 南京の帝国日本軍が一旦大量に投降を受け入れた捕虜を大量に殺害した主要な理由の一つは、各部隊が先陣を争って上海から南京まで補給を無視したがむしゃらな追撃戦を続けてきたため、現地略奪の食料で自分たちを養うのが精一杯で、この大量の捕虜を養う食料がなかったことだ。

●中新涇鎮出発以来、軍補給点の推進は師団の追撃前進に追随するを得ずして、上海付近より南京に至る約百里の間、ほとんど糧秣の補給を受くることなく、ほとんど現地物質のみにより追撃を敢行せり。(第9師団作戦経過の概要)

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2021/02/27/134228

1937年12月14日

●捕虜の始末に困り、恰も発見せし上元門の学校に収容せし所、14,777名を得たり。斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり。(山田旅団長日記)

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/11/06/235437

●13D[第13師団]山田支隊の獲たる俘虜約二万あるも、食糧なく処置に困る。(上海派遣軍西原作戦課長の日誌、靖國偕行文庫 80975 390,281ニ,ニ 作戦日誌 12.8.11-13.2.18 上海派遣軍幕僚 西原一策)

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2021/03/09/175824

●山田支隊の俘虜東部上元門附近に一万五、六千あり、尚増加の見込みと。依て取り敢へず16D[第16師団]に接収せしむ。(上海派遣軍飯沼参謀長日記、偕行社『南京戦史資料集 Ⅰ』p.158)

12月15日

●大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたるも、千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来ず…後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊が処理せしもの約1300、其の仙鶴門に終結したるもの約七、八千人あり、尚続々投降し来る。(中島第16師団長日記、偕行社『南京戦史資料集 Ⅰ』p.220)

●捕虜の始末他にて本間騎兵少尉を南京[第16師団]に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食料なく困却す。(山田旅団長日記)

12月16日

●相田中佐を[上海派遣]軍に派遣し、捕虜の始末其の他にて打合はせをなさしむ。(山田旅団長日記)

12月18日

●捕虜の始末にて隊は精一杯なり。江岸に之を視察す。(山田旅団長日記)

12月19日

●捕虜始末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ。軍、師団より補給つき日本米を食す。《下痢す》(山田旅団長日記)

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2020/11/06/235437

1938年7月13日

●中支戦場到着後、先遣の宮崎参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州機関長萩原中佐等より聴取する所に依れば、従来、派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くは之を殺するの悪弊あり。南京攻略時に於て約四、五万に上る大殺戮、市民に対する掠奪·強姦多数ありしことは事実なるか如し。

(岡村寧次第11軍司令官陣中感想録)

 

 「おつかいくまさん」は「相手が背信行為(便衣兵等)を犯した場合…受け入れなくてよい」とも言うが、これはどうだろうか。「便衣兵」の定義がはっきりしないが、ハーグ「陸戦の法規慣例に関する規則」の第23条が禁ずる配信行為とは、

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(ロ) 敵の国民又は軍に属する者を欺罔の手段により殺傷すること

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000018884

だから、この「便衣兵」が「私服狙撃者」と信夫淳平が規定する「便衣隊」を意味するのであれば、その「便衣兵」の狙撃による殺傷行為は交戦法規違反となる。

 ただし信夫淳平が「便衣隊」と呼んだのは、1932年第一次上海事変当時の「私服狙撃者」であり、

便衣とは平服といふに同じく、即ち一般市民と識別し難き服装にて本邦人の多数に居住する方面に潜入し、多くは民家に隠れて屋上又は窓戸より、稀には街路に於て、突如多くはピストルを放つて対手を狙撃するもので、彼等の中には学生あり、労働者あり、将た正規兵の変装せる者もあり、之を背後に操る者の中には、青幇と称する有力な団体もある。

信夫淳平『上海戦と国際法』より 第二項、便衣隊 1932 - Ob-La-Di Облако 文庫

 

というのが「便衣隊」だから、1937年12月の南京で武器も軍服も捨て、帝国日本軍に何ら抵抗しなかった人たちは無論これに該当しない。

 1937年の南京に1932年上海の「便衣隊=私服狙撃者」が現れた場合はどうなるだろうか。この場合、オッペンハイムの主張によれば、彼らは交戦法規に違反しているから国家的報復として彼らに助命を拒否してよいことになる。そのかぎりでは「おつかいくまさん」が「敵の戦争法規違反に対する報復として…投降を拒否することができる」という主張するのはオッペンハイムの主張に則していると言える。

However, the rule that quarter must be given has its exceptions. Although it has of late been a customary rule of International Law, and although the Hague Regulations now expressly stipulate by article 23 (d) that belligerents are prohibited from declaring that no quarter will be given, quarter may nevertheless be refused by way of reprisal for violations of the rules of warfare committed by the other side; and, further, in case of imperative necessity, when the granting of quarter would so encumber a force with prisoners that its own security would thereby be vitally imperilled.

しかしながら、命を助けなければならないという決まりには例外がある。近年それは国際法の慣習的な決まりになってきたけれども、また、ハーグ規則は今や第23条(イ)項において、交戦者が助命しないと宣告することを禁ずると明文化して約定しているけれども、敵側が犯した交戦法規違反に対する報復として助命を拒否することはやはりできる。さらに命を助けると捕虜を連れ歩くことが軍の行動を著しく妨げ、そのためその軍自身の安全が致命的に脅かされるという、絶対的な必要性がある場合もまたそうである。

https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2021/02/28/145217

交戦法規違反への報復の場合と、足手まといになって決定的に危険な場合との二つに限り助命拒否が許されるとオッペンハイムは主張する。「おつかいくまさん」の言う様に「いくつもの例外的な慣例がありました」のではなく、二つだけだ。問題は、この二つの例外規定がオッペンハイムの戦時国際法論が書かれた1912年の時点で、または南京暴虐事件のあった1937年の時点で国際的に同意された慣例だったかたどうかだ。

 ハーグ「陸戦法規及び慣例に関する規則」は1899年に当時の陸上戦闘に関する国際的に同意された慣例を明文化したものである。しかしこの規則は、繰り返しになるが、第23条(ハ)項、(ニ)項で

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(ハ) 兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵兵を殺傷すること

(ニ) 助命せざるの宣言を為すこと

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000018884

を無条件に禁止しており、オッペンハイムが主張するような二つの例外規定は設けていない。したがって、1899年の戦時国際慣例にはそのような助命の例外規定はなかったと言える。

 ではその後1937年までに、そのような例外規定が国際的慣例となったのだろうか。だとすれは、1949年のジュネーヴ諸条約のなかで、そのような例外規定を設けるような変更がハーグ規則に加えられなければならない。しかしそのようなことは起こらなかった。よってオッペンハイムの主張する二つの例外規定は国際慣習法とはならなかった。それは彼の国際法論上の主張にとどまった。

 交戦法規違反の事実があれば捕虜にしてから軍法会議で裁き、罪に応じた系を化すればよいし、足手まといになるなら武装解除後、直ちに解放すればいいのだ。なにもそろを理由にして捕虜にする前に殺す必要はない。

 要するに、歴史否認ネット右翼が南京の「便衣兵」と呼ぶ人たち──武装解除された、あるいは自己武装解除した元兵士たち──は、オッペンハイムの主張する、戦争法規に違反しているために報復として助命を拒否してよい人たちには該当しないし、オッペンハイムの主張は戦時国際法の慣例ではなかった。「便衣兵(軍服を着ていないこと自体)は交戦法規違反だから報復として捕虜にせず殺害していい」という「おつかいくまさん」のヘイト·デマは二重に破綻している。

日本国はサンフランシスコ講和条約第11条で何を受諾したか。

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おつかいくまさん @otsukaikumasan

東京裁判を受諾したというのは、判決の効力と判決した裁判所の設置根拠、適用法規、手続き等の有効性を認めたということで、認定された事実を「正しい」と認識していることではない。
わかりやすく言うと
有罪になった被告人が内心冤罪や量刑不当だと思っても、法に従って刑に服するということはある。

https://twitter.com/otsukaikumasan/status/1364265858646745090

 

 まずもって、日本国は極東国際軍事裁判の被告ではないのだから、「有罪になった被告人が内心冤罪や量刑不当だと思っても、法に従って刑に服するということはある」というのは、サンフランシスコ講和条約(以下「サ条約」と略す)で日本国が同裁判の “the Judgments” を受諾したことの譬えにはならない。この裁判で有罪になった被告人である東條英樹や松井岩根などの個人が、判決に従って刑に服しながらも内心裁判の事実認定や量刑が不当だと思っていたかどうかということと、サ条約第11条で「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」した日本政府が、判決の事実認定をを受け入れたかどうかということは別問題であり、「おつかいくまさん」の譬え話は、国際裁判の被告と日本国をすり替えた詭弁である。

 次に、サ条約第11条で日本国が受け入れているのは極東国際軍事法廷その他の連合国戦争犯罪法廷の(定冠詞つきの) “the Judgments” であり、これはそれらの裁判の「判決」を意味すると当然に理解される。

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        Article 11

 Japan accepts the Judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan. 〈……〉 

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S38-P2-795_1.pdf

 つまりサ条約第11条で日本国が受け入れた “the Judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts” とは、極東国際軍事裁判の終わりに1948年11月ウェブ裁判長が読み上げた “the Judgment of the International Military Tribunal for the Far East” や、その他の裁判の判決に他ならない。


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 Thursday, November 1948

 

    INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL

        FOR THE FAR EAST

      Court House of the Tribunal

         War Ministry Building

          Tokyo, Japan

 

 The Tribunal met, pursuant to adjointment, at 0930.

〈……〉 

 MASHAL OF THE COURT:  The International Military Tribunal for Far East is now in session.

 THE PRESIDENT:  All of the accused are present except HIRANUMA, SHIRATORI and UMEZU.  The Sugamo prison surgeon certifies that they are ill and unable to attend the trial today.  The certifications will be recorded and filled.

 CLERK OF THE COURT:  THE UNITED STATES OF AMERICA, THE REPUBLIC OF CHINA, THE UNITED KINGDOM OF GREAT BRITAIN AND NORTHERN IRELAND, THE UNION OF SOVIET SOCIALIST REPUBLICS, THE COMMONWEALTH OF AUSTRALIA, CANADA, THE REPUBLIC OF FRANCE, THE KINGDOM OF NETHERLANDS, NEW ZEALAND, INDIA, AND THE COMMONWEALTH OF PHILIPPINES.

       AGAINST 

DARAKI, Sadao, DOHIHARA, Kenji, HASHIMOTO, Kingoro, HATA, Shunroku, HIRANUMA, Kiichiro, HIROTA, Koki, KIDO, Koich, KIMURA, Heitgro, KOISO, Kuniaki, MATSUI, Iwane, MATSUOKA, Yosuke, MINAMI, Jiro, MUTO, Akira, NAGANO, Osami, OKA, Takasumi, Okawa, Shumei, OSHIMA, Hiroshi, SATO, Kenryo, SHIGEMITSU, Mamoru, SHIMADA, Shigetgro, SHIRATORI, Toshio, UMEZU, Yoshijiro.

 JUDGMENT OF THE INTERNATIONAL MILITARY COURT FOR FAR EAST.

 THE PRESIDENT: I will read the Judgment of the International Military Tribunal for the Far East. The title and the formal parts will not be read.

 PART A-CAPTER 1

 Establishment and Proceeding of the Tribunal

 The Tribunal was established in virtue of and to implement the Cairo Declaration of the 1st of December, 1943, the Declaration of Potsdam of the 26th July, 1945, the Instrument of Surrender of the 2nd September, 1945, and the Moscow Conference of the December, 1945. 

〈……〉

○昭和二十三年十一月四日(木曜日)

東京都旧陸軍省極東国際軍事裁判所法廷において

[中略]

 〔午前九時三十分開廷〕

○法廷執行官 ただいまより極東国際軍事裁判所を開廷します。

○裁判長 平沼、白鳥及び梅津の三被告を除き、全被告出廷、欠席被告は弁護人によって代表されています。

 巣鴨拘置所医務官からの証明書によれば、右三被告は病気のため本日出廷できないとのことであります。この旨記録に留め、証明書は綴じ込みに入れます。

○法廷書記 アメリカ合衆国中華民国、グレート·ブリテン·北アイルランド連合王国ソビエト社会主義共和国連邦オーストラリア連邦、カナダ、フランス共和国オランダ王国、ニユージーランド、インド及びフイリツピン国

   対

荒木貞夫土肥原賢二橋本欣五郎、畑俊六、平沼騏一郎広田弘毅星野直樹板垣征四郎、嘉屋興宣、木戸幸一木村兵太郎小磯国昭松井石根松岡洋右、南次郎、武藤章永野修身岡敬純大川周明大島浩佐藤賢了重光葵嶋田繁太郎白鳥敏夫、鈴木貞一、東郷茂徳東條英機、梅津美次郎

   極東国際軍事裁判所判決

○裁判長 本官は、ころから極東国際軍事裁判所の判決を朗読します。表題および形式的の部分は朗読しません。

 〔朗読〕

  A部第一章 本裁判所の設立及び審理

 本裁判所は一九四三年十二月一日のカイロ宣言、一九四五年七月二十六日のポツダム宣言、一九四五年九月二日の降伏文書及び一九四五年十二月二十六日のモスコー会議に基いて、またこれらを実施するために設立された。

[以下略]

↑A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.4(第48413~48674頁) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000340390  p.4~p.6

↑A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決) https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000340254  p.7~p.8

 

 もっとも、日本政府外務省はサンフランシスコ条約第11条の “the Judgments” を「裁判」として次のように和訳し、これは正文に準ずるものとして締約国の間で承認されている。

第十一条
 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。

 「裁判」を受諾したと言うと裁判の何を受諾したのかはっきりしないようにも見えるが、これは裁判のすべてを受諾したとしか解釈のしようがない。“the Judgments” の訳語として用いられている以上、この「裁判」は「判決」から派生して裁判の全体を意味するものと見るべきだろう。つまりそれは判決以外のものを含むことはあり得ても、判決を含まないことはあり得ない。当然それは判決に述べられた事実認定を含まないこともあり得ない。

 そもそも極東国際軍事裁判の判決文は長大なものであり、その中では法廷の設立根拠、審理の方法、法廷の管轄権の根拠、起訴状の訴因の検討、日本国が結んだ諸条約により日本国が負った義務と得た権利、訴因のもとになる犯罪事実の認識、起訴状の訴因についての認定、判定、刑の宣告などが述べられている。

 サ条約第11条で日本国が受諾した “the Judgments” が何を意味するかについては、2005年6月2日の参議院外交防衛委員会山谷えり子委員の「日本は裁判の判決を受け入れていますが、日本側共同謀議説などの判決理由東京裁判史観を正当なものとして受け入れたのか、また、罪刑法定主義を無視し、今日でも概念が国際的に決まらない平和に対する罪で裁かれたことを受け入れたのか」という質問に、政府委員の林景一外務省国際法局長が次のように答弁している。

 先生も今御指摘のとおり、サンフランシスコ平和条約第十一条によりまして、我が国は極東国際軍事裁判所その他各国で行われました軍事裁判につきまして、そのジャッジメントを受諾しておるわけでございます。

 このジャッジメントの訳語につきまして、裁判というのが適当ではないんではないかというような御指摘かとも思いますけれども、これは裁判という訳語が正文に準ずるものとして締約国の間で承認されておりますので、これはそういうものとして受け止めるしかないかと思います。

 ただ、重要なことはそのジャッジメントというものの中身でございまして、これは実際、裁判の結論におきまして、ウェッブ裁判長の方からこのジャッジメントを読み上げる、このジャッジ、正にそのジャッジメントを受け入れたということでございますけれども、そのジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれているというふうに考えております。

 したがって、私どもといたしましては、我が国は、この受諾ということによりまして、その個々の事実認識等につきまして積極的にこれを肯定、あるいは積極的に評価するという立場に立つかどうかということは別にいたしまして、少なくともこの裁判について不法、不当なものとして異議を述べる立場にはないというのが従来から一貫して申し上げていることでございます。

https://kokkai.ndl.go.jp/txt/116213950X01320050602/28

 サ条約第11条で日本国が受諾したのは、極東国際軍事裁判の結論でウェッブ裁判長が読み上げた判決であり、その中には裁判所の設立、審理、その根拠、管轄権の問題、様々な訴因のもとになる事実認識、起訴状の訴因についての認定、判定、刑の宣告のすべてが含まれるというのが日本政府の見解だ。「様々な訴因のもとになる事実認識、起訴状の訴因についての認定」を日本政府は受け入れており、「不法、不当なものとして異議を述べる立場にはない」のである。「この受諾ということによりまして、その個々の事実認識等につきまして積極的にこれを肯定、あるいは積極的に評価するという立場に立つかどうかということは別にいたしまして」と言っているが、この「別にいたしまして」というのは判断を回避しているのであって、「個々の事実認識等について積極的にこれを肯定、あるいは積極的に評価するという立場に立つ」ことを肯定も否定もしていない。具体的に特定の事実認識について受け入れないと言っているわけでもない。